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Channel: 黒鉄重工
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ビクトリアの沿岸要塞跡地を見学する その6【2016/3/16】

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ベルモント陣地の脇からの海岸沿いの小道を歩いていると小屋が出てきました。これは探照灯小屋ですが、最初に見た2つを含む4つの探照灯小屋とは別の時期に建てられたものです。この小屋は第二次世界大戦時に建てられた17棟の小屋のひとつ。19世紀に建てられた4棟の探照灯小屋はこの時に置き換えられて役目を終えました(だから探照灯本体は残っていなかったのだ)。この小屋は6号探照灯小屋で、1940年に建築。6号が最初の4棟からの続番なのか気になりましたが不明。エスクイモルト湾の入り口を見張っていました。外観は板小屋にみえますが、実は迷彩塗装で、実際はバリバリのコンクリート造り。さっき見た1号探照灯小屋と同じような造りと見て良いでしょう。

位置関係はこのようなかんじ。

砂浜の上に建てられていて、海が荒れていたときに流れ着いた流木が打ち上げられています。こんなところで大丈夫だったのかな・・・。

正面の円弧状の部分がシャッターになっていてそこが開くと探照灯がお目見えします。そのシャッターの部分には四角い窓がありますが、あれも迷彩で描かれたダミーです。結構凝っているのよ。描いた人結構楽しんでやってたんじゃないかな。小屋の前には舟がありますね。これ、満潮時は舟を使って出入りしていたということですかね。

そして!ここの小屋には探照灯御本尊が鎮座しています!直径60inch (152.4cm) あります。やはりでかいな。銘板はかすれてて読めなかったけど、ゼネラル・エレクトリック製であるのは確認できました。


振り返ってみるとベルモント陣地が見えます。離れてみるとこう見えるのか。管制塔の高さは30mくらいなのかなぁ。だとすると、x=3570√30でx≒19.5kmくらいですかね。妥当なんじゃないかなぁ(適当)

道沿いに置かれている物体。まあ、奥のは機雷でしょう。手前のは・・・?

金属製の網ですね。これは、対魚雷対潜水艇網です。この網を海中に展開することで放たれた魚雷や侵入しようとする潜水艇を網に引っ掛けて防御するためのものです。

もう一度ここの地形を確認してみましょう。この入り江状の地形の内側にエスクイモルト海軍基地がありまして、艦艇の出入りは入り江の入り口の狭い水道部しかありません。ここだけ守備すればよいので守る側にとってはやりやすいですね。日本の海軍基地も大なり小なり似たような地形をしています。で、その防御網はこの入り江の入口に直線状に東西に渡って展開されました。一定距離ごとにブイが浮かんでいて、ブイから網が垂らされる格好でした。ただ網を広げただけでは今度は自分たちの艦艇が出入りできませんから、必要に応じてこの網の門を開閉できるようになっていました。防御網は両岸から延びていって、先端は移動式の舟に繋がっていました。2艘の舟は普段は連結して門が閉まっている状態になっていますが、友軍の艦艇が出入りする時は舟が離れて門が開いた状態になるのです。
ちなみに日本海軍はさほど特殊潜航艇の使用に熱心でなかったので、対日戦装備としては疑問が残るところ。この防御網、恐らくは有名なところでイタリア海軍のアレクサンドリア港攻撃の戦訓を活かした格好になっていると思います。イタリア海軍の特殊潜航艇が港内に侵入して、イギリス海軍の戦艦に魚雷か機雷かを放って沈没させたやつですね。ここ以外での実例は調べていないのでなんとも・・・ですが。


これは機雷ですなぁ・・・と思いましたが、たぶん網を海中に垂らすためのブイですかね、うーん。

海岸から陸地の方に戻ります。これは探照灯を動かすための発電室でござい。海岸から見て大きな岩の後ろにあります。もちろん、敵の火砲から防御するためのもので、軍事設備でありますな~。ただまあ、長年の経年によるものか、土被りもややあるような気がして、半分埋もれているような格好に。1902年~1956年の間、運用されていました。つまりベルモント陣地の運用開始直後からロッドヒル要塞そのものが廃止されるまでの間ということですね。

建物は1898年竣工?

奥の鉄柵の先の円筒状の白い物は燃料タンクです。その手前の地面の白いマンホールみたいなやつは排気濾過装置です。排気と一緒に出る煤煙で敵に気取られないようにするためのもの。中は水タンクになっているようなんですが、構造がよくわからない。塗装ブースを排気ホースの先に水を入れたバケツを用意しておくことがありますけど、あれと同じことかな?奥にももう一つあるんですが、土嚢で覆われてますね・・・。でも左の窓からはみ出ている鉄管は発電機本体の排気管ですから、ディーゼル機関換装後の晩年は使われていなかったと思われ。

タンクはいくつも並んでいます。800ガロンが16槽。ガロンは明記されていませんが英ガロンだと思いますが・・・。中には入れず。

これが発電室の中。発電機も保存されているのは高得点です。竣工から1940年までは25馬力の焼玉エンジン (ホーンスビー・アクロイド式機関: Hornsby-Akroyd oil engine) を2基使ってたそうな。恥ずかしながら焼玉エンジンはほとんど知らないわけですが、ポンポン船のあの音だよな、くらいにしか親しみがなく・・・。日本でも現存例あんまりなさそうだなぁ。で、第二次世界大戦の時期にウェスティングハウス製のガードナー・ディーゼル機関3基に置き換わったそうな。CAR-S0103という型番のような文字が書かれてましたが、詳細不明。

次、食堂。1900年築。いわゆる酒保でしょうかね。1930年代に食堂として使われました。他にも物置き、既婚者の住居、事務所などなんにでも使われていた模様。奥の部屋は室温が低く一定なのでビールセラーとして使ってました。

食堂ですね~。顔ハメ看板もあり。顔を取られてしまった兵士カワイソスと思うのは自分だけか。

あれはたぶん野営キャンプ。ここは基本的に後方の基地ですから、兵士の訓練地として使われていたというのはありそう。今は普通に民間人が宿泊できる観光用のキャンプハウスになっているんだと思います。


組立工小屋。組立工の作業小屋です。なんでこんなところに。

こんなふうに道具が置いてあります。鍛冶仕事もやってたみたい。

見晴らしの良い丘の上にある建物は砲台司令部です。いわゆるコマンドポスト。各砲台を指揮するための場所で、この要塞の指揮系統の頂点です。見晴らしが良いと言っても周りは樹木に覆われています。これは司令部を周りから隠匿するためなのでこれで正解。現役時ここの位置は割と機密だったそうな。

海さえ見えればそれでいいっしょ、な具合で窓の天地はとても狭い。なお今は木が生長しまくって前が見えん。

これは距離計を置いていた台。側面になんか書いてありますが、かすれていて読めん。もうひとつ通信室があって、そこで各砲台陣地へ電話で通信してました。

司令部の裏に建つ、軍事基地にそぐわないお家。1897年築。砲手長 (Master gunner) とその家族の住む家だったそうな。でも下士官が住んでいた時期もあったそうな。ここに下士官が住めるの?その後も第二次世界大戦時には将校の家になり、戦後には既婚者の家となり、また砲手長の家になりましたとさ。これも中には入れず。
というところで今日はここまで。

その7へ→

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