ピマ航空宇宙博物館怒涛の屋外展示編。後何回で終わるのか見当がつかん。
今回は比較的どうでもいい機体が続くので軽く流していきましょう。でないと終わらない。
グラマンF9F-4パンサー(2日ぶり2機目・326機目)
前回見たF9F-8(F-9J)クーガーの改良前のやつです。パンサーは主翼が直線翼になっているのです。対して改良型のクーガーは速度向上を狙って後退翼になっています。空軍のF-84みたいなもんです。
海軍のジェット艦上戦闘機の初期の機体で、朝鮮戦争時の機体です。4型は尾部と胴体が大型化したもの。
マクドネルF-101Bブードゥー(1日ぶり2機目・327機目)
クルセイダー(十字軍)と並んでその名前はどうだろう...、と思わせる戦闘機。
B型は複座の迎撃機です。防空用の迎撃機はF-102およびF-106がすでにいるんですが、あれこれ理由をつけて運用しています。空軍が予算獲得のために採用したんじゃねーのという気がしないでもなく。
ちなみにF-101のT字尾翼は最悪で、飛行中迎え角を取るとつられて急激なピッチアップを起こして次いで失速するという欠陥を持っていました。それの対策は「機動せずにまっすぐ飛べ」というものでした。一応戦闘機なんだけど・・・。
そういう事情もあって、F-101はまっすぐ飛んでりゃいい迎撃機と偵察機にしか使えなかった説あり。そこまでして使うことないでしょって感じですが、きっと空軍も予算が欲しかったんでしょう。
ブッシュビーMM IIミジェットマスタング(328機目)
軽飛行機メーカーのパイパーの技師が個人で1948年に発表した飛行機でしたが、反応が悪く、終わってしまいました。
が、ロバート・ブッシュビーが1959年にこの飛行機の製造権を買い取り、開発を続行。1965年に販売を開始しました。現在までに400機以上が生産されたそうな。
マスタングっていうのはP-51を意識しているんですかねぇ。言われればそれっぽく見えるとは思います。
グラマンOV-1Cモホーク(2日ぶり2機目・329機目)
アメリカ陸軍が運用していた観測機です。陸軍というところがミソで、陸軍機としては珍しい固定翼機です。1959年初飛行ですから、この頃はまだ固定翼機の運用がギリ出来ていた時期だったと思います。
現場の地上部隊を管制するような役割を主に求められていました(直接協同と言うそうな)。なので前線での運用に耐えられる設計がされていて、不整地滑走路での離着陸が出来るのは当たり前。エンジンが片方やられても急激に姿勢を崩さない生存性の高さなどが挙げられます。
他に近接航空支援(CAS)を含めたCOIN機としても使っていたようですが、人の仕事を分捕るなと空軍から横槍が入ったのでこの運用はされなくなってしまいました。とか言いつつ空軍はCAS機を持たずに地上支援する気なんてサラサラ無いですから、厄介です。仕事を取るな、と言うより予算を取るな、といったほうが正確でしょう。
バッドRB-1コネストガ(1943年・330機目)
見学時は欠損部品の多いブサイクな輸送機だと思って軽くスルーしてしまいましたが、帰ってから調べてみるやとても面白い機体だと分かりました。間違いなくこれは珍品です。
製造メーカーがバッド(Budd)というところから興味深いです。バッドは鉄道オタクならご存知でしょう、ステンレス車両の製造メーカーとして名を馳せたあのバッド社です。この会社、飛行機も造っていたんですよ。
普段飛行機を造らないような会社が飛行機を造るというのは第二次世界大戦中のアメリカではそこかしこで見られたものです。例えば自動車メーカー フォードのB-24爆撃機、同じく自動車メーカーのGMのF4F戦闘機やTBF雷撃機、変わったところではタイヤメーカーのグッドイヤーのF4U戦闘機等々・・・。
飛行機に限らなければ、戦車や野砲なんかは自動車メーカーはもちろん、鉄道工場なんかでもバカスカ造ってました。
ただし、上記のような異業種が兵器生産をしたというのは、他社製品のライセンス生産である場合がほとんどです。その点で、バッドが飛行機を独自開発したというのは珍しいでしょう(ただし機体設計は外部が関与してると思われ)
なんでバッドが飛行機開発したのかというと、バッドがステンレス鋼の加工に自信ニキだったからです。
・・・・・・そうです、この飛行機は銀ピカですが、素材はアルミ合金とかジュラルミンとかではなく、ステンレス鋼なのです。オールステンレス飛行機というのは前代未聞でしょう。
この輸送機の開発はアメリカが日本に横っ面を引っ叩かれてWWIIに本格的に参戦した直後辺りに始まりました。当初アメリカ軍は、戦争が進むに連れて飛行機の素材であるアルミ合金が不足するだろう、という予想を立てていました。
そこで、輸送機や練習機という後方で使われるような、アルミ合金による軽量化の恩恵を受ける必要が比較的無い機種に関しては、アルミ合金以外の素材で飛行機を作ってみようという話が進んでいきました。日本やドイツが大戦末期に資材不足に悩んだ末に木製戦闘機を造ったように大半は木製で開発するつもりだったそうですが、バッドだけは自慢のステンレス鋼を用いて海軍向けにステンレス輸送機が開発することになりました。
開発は順調に進んだようです。機体は骨格となるフレームの上にステンレスの板をスポット溶接したもので、ステンレス客車での技術が活かされていました。なので胴体がしわしわになっているのに注目してください。モノコック構造と違って外板が強度を負担していないのです。
その後試作機17機が海軍に納品されました。そして海軍はRBの名前で200機、さらに陸軍からもC-93の名前で600機の発注を得ました。こうしてRB/C-93は資源不足を救う輸送機として名を・・・轟かせられませんでした。
まず、予想されていたアルミ合金の不足が起きなかったこと。もうこれだけでRBの存在意義はほとんど失ったようなものです。ステンレス鋼はアルミ合金よりも重く、軽さが命の飛行機の素材としては適してないので、使わないんだったらそれに越したことはありません。
次に、生産コストが意外と高かったこと。コスト高騰の詳しい理由は分からないので推測になりますが、ステンレス鋼は曲げ加工がムズいんで、曲面だらけのRBでは生産に時間がかかったこと。あとはバッド自体が飛行機の製造に不慣れだったこと、ですかね?
結局、試作機17機が造られただけで開発中止となってしまいました。南無。
残念な結果になりましたが、実はRBは機体構造が当時としては実に先進的です。太い胴体、主翼を高翼配置、車輪は前輪式、胴体後部にカーゴランプを配置、コックピットは一段高いところに置いてその分荷室をできるだけ前方まで広く配置・・・と、C-130から始まる軍用輸送機の基本構造をほぼ抑えているのです。
現代の軍用輸送機の基本構造のルーツはC-130ですが、それより何十年も前にRBがやっていたというのは特筆すべきことでしょう。ただ、RBが制式採用されずに消えていったドマイナー機になってしまったからか、RBの後に続く構造の輸送機が現れなかったのは惜しいことです。
・・・というような感じで、流し見しただけなのをとても悔しく思っている飛行機です。再履修したら舐めるように見てやる。
なお現存機はこれだけで、大変貴重です。不採用機がよくもまあ残っていたものだこと。
欠損部品が多く、ほとんど胴体だけの姿ですが、ステンレス製という特殊性が災いしているのか、復元は進んでいないようです。
パイパーU-11Aアズテック(1952年・331機目)
アメリカ海軍の連絡機です。旧名はUO-1。パイパーの民間用軽飛行機PA-23を流用したものです。
パイパーでは初めての双発機で、4人乗りの前期型と6人乗りの後期型があります。名前も違っていて、前期型はアパッチ、後期型がアズテックです。
海軍では基地間の連絡の他に、デスクワークの多いパイロットが技能維持のために飛ばしていたようです。技能維持というよりも、確かパイロットには年間飛行時間が決まっていて最低でもその時間以上飛んでいないといけなかったはずなので、それの消化でしょう。
セスナU-3Aブルーカヌー(1953年・332機目)
これもセスナの民間機モデル310を空軍が軍用に転用したもの。やはり連絡機として使ってました。
ノースロップYC-125Aレイダー(1949年・333機目)
ノースロップ、輸送機もやってたのか。3発エンジンって戦前かいな、という感じですが1949年初飛行です。これは短距離離着陸機が目的だったようです。襲撃者(Raider)という名前から、前線で使うように造られてそうです。
もともと民間用でして、これで一山当てようと思ってましたが、戦後間もない頃だと大量のC-47輸送機が格安で民間に放出されてた時期でして、誰も買う人なんていないのでした。
一応、空軍が興味を持ってくれましたがそれでも試作程度に20機造っただけで終わってしまいました。ノースロップくん、ここでも当たりを引けず・・・。
それでも飛行学校の教材になったり中南米の航空会社に売却されたりして、現在は2機が現存しています。
これもRB同様の構造でいい線いってたんですが、やはり誰からも覚えてもらえなかったので後に続くものがいなかったという。
あと脚の構造がすごいな、と。着地したとき折れそうだぞ。
マーティン モデル404 スカイライナー(334機目)
空港アクセス特急みたいな名前ですが・・・当然飛行機のほうが先。
マーティンの旅客機です。モデル202の改良型で、予圧客室を採用して快適性が上がりました。100機程度造られて、イースタン航空とトランスワールド航空に大半が引き渡されたそうな。
この塗装は個人が持ってた払下げの機体の塗装っぽいです。
エルコ415Cエルクーペ(1937年・335機目)
現代の軽飛行機のような姿ですが戦前に設計された古い飛行機です。前輪式、低翼、全金モノコック構造と、当時としては先進的な構造を持っていました。それでも双尾翼なところは戦前らしいかな。
あとは、機体にラダーはあるもののコックピットにはラダーペダルが付いていない変わった設計です。ラダー操作はエルロン操作と連動して行うんだそうな。
しかし、直後に第二次世界大戦が始まり販売しているような状況ではありませんでした。
販売再開は大戦終結後の1946年から。その年だけで4,300機以上を生産しました。軍から放出された軽飛行機が強力なライバルとなる中でこの数は、機体の性能は結構良かったということでしょうか?
エルコは1950年に生産を中止しますが、製造権を他社に売却して1970年代まで生産は続けられてたようです。
セスナ モデル150L(1957年・336機目)
説明不要のセスナの軽飛行機。なので説明しません(手抜き)
ただし、いわゆる「セスナ」と呼ばれているモデル172は4人乗りなのに対して、モデル150は2人乗りで一回り胴体が小さいのです。
ベイドBD-4(1968年・337機目)
普通の軽飛行機という感じですが、世界初のホームビルド機という肩書を持っています。
初めての飛行機キットということで造りやすさははじめから考えられていて、胴体は直線と平面で構成されています。唯一曲面の部材であるエンジンカウリングとタイヤのスリッパは炭素繊維製の部品で成形されています。主要部品はボルトで締結するだけという組み立てやすさも特徴。組み立ても一部選択式になっていて、車輪を前輪式/尾輪式、胴体を2人乗り/4人乗りで選択できました。初のキットながら完成度は高かったと思います。
数千機分のキットが販売され、そのうち数百機が完成したと言われています。キットはもう絶版ですが、中古市場ではまだ人気があるとかで。
ヴィッカース モデル744バイカウント(1948年・338機目)
WWII後増大する航空需要を見越して「ワイらが旅客機製造の派遣を取るんや!」としてブラバゾン委員会で開発された旅客機です。機体サイズや航続距離に応じて5種類の旅客機が開発されまして、バイカウントはDC-3相当の大きさの短距離機です。ブラバゾン委員会で開発された旅客機はほとんど鳴かず飛ばずだったんですが、その中でバイカウントは最も成功した機体と言われていて、400機以上が生産されました。全日空も使ってましたね。
機体サイズは現在で言うところの小型リージョナルジェット級の約50席で、ターボプロップエンジン4発を搭載しています。なお世界初のターボプロップエンジン搭載旅客機です。胴体の形状が美しく、私は結構好きな機体です。
右主翼の手前に置かれているのがバイカウントのエンジンのロールスロイス ダートエンジンです。
これはおそらく1955年製で、北米初のバイカウントです。トランスカナダ航空に納品されて1963年まで運用してました。退役後は個人や民間会社を渡り歩いていたそうな。
ライアン・テムコ ツインナビオン(1953年・339機目)
もともとノースアメリカンが開発していたナビオンという単発の軽飛行機ですが、F-86セイバーの生産でいっぱいいっぱいになってしまい、ライアンに製造権を売却することに。
ライアンでナビオンを生産していましたが、その後これを双発機に改造してしまおうと考えました。胴体はそのままに、主翼にエンジンを搭載し、エンジンの無くなった機首は荷物室にしました。100機くらいが単発のナビオンから改造されたと言われてます。新造機はいないらしい。
スノーS-2A(340機目)
初飛行時期はよくわかりませんでしたが、1950~1960年代の飛行機なのだということ。1930年代前半の飛行機にしか見えないけれども。
上空から農薬を散布する農業機として造られたのだそうな。
ビーチU-8Dセミノール(1949年・341機目)
モデル50ツインボナンザの軍用版です。陸軍の連絡機として使っていた模様。単発機のボナンザの双発版みたいな名前ですが、設計は完全に新規のようです。
シュドSE-210カラベル(1955年・342機目)
フランス製のリアエンジンと十字尾翼を採用したはじめてのジェット旅客機です。特にリアエンジンは現在のジェット旅客機にまで影響を与えている革新的方式です。他にもつるんとした機首や角の丸い三角形の窓も特徴的。
画期的な飛行機のはずですが、あんま知名度高くないような。
これはテキサスのエアロサービスという会社の塗装だそうな。胴体の下についている観測ポッドみたいなのは何なのかしら。
ビーチクラフト モデル2000Aスターシップ(1986年・343機目)
オイルショックの時に流行った低燃費ターボプロップビジネス機。後退角を可変できる先尾翼、推進式プロペラ、炭素繊維製胴体、グラスコックピットなど、低燃費を狙った先進的技術が採用されています。ただし価格が上昇してしまい、従来機や競合機に対して優位に立てず、鳴かず飛ばずで販売終了してしまいました。
この時期の低燃費ビジネス機は特徴的で面白いので好きです。
シコルスキーJRS-1ベビークリッパー(1935年・344機目)
古そうな飛行艇だと思ったら案の定戦前の設計でしたね。こんな外に置いておいておくものじゃないでしょ。
JRS-1はアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で使われていたものの型番で、他に民間用にもS-43として製造しました。民間ではパンナムなんかが使っていました。最大25人乗りです。
"ベビー"クリッパーというくらいですから、大人なクリッパーもあるってことで、これはS-42クリッパーとして存在しています。最大37人乗り、4発エンジンのでかい飛行艇で、これもパンナムが運用していました。アメリカ西海岸~中国とかカリフォルニア~ハワイとか、長距離路線に充てられていた模様。
敷地の奥にいるB-52(1日ぶり2機目・345機目)。あそこは立入禁止で、どうも修復区画っぽいです。B-52も整備中なんでしょう。
ちゃんと整備用の格納庫を持っているのがすごいよなぁと思うわけで。どんだけデカイんだこの博物館。
少し違う方を向いてみると、展示前の飛行機がずらずらと・・・。ハリアー、C-27、B-52、他によく分からない機体もたくさん。
まだまだ増やす気満々だからすげーわここ。これ以上増やしてどないすんねん。そのうち全部見るのに3日掛かるぞ。
今回はここまで。
その76へ→
今回は比較的どうでもいい機体が続くので軽く流していきましょう。でないと終わらない。
グラマンF9F-4パンサー(2日ぶり2機目・326機目)
前回見たF9F-8(F-9J)クーガーの改良前のやつです。パンサーは主翼が直線翼になっているのです。対して改良型のクーガーは速度向上を狙って後退翼になっています。空軍のF-84みたいなもんです。
海軍のジェット艦上戦闘機の初期の機体で、朝鮮戦争時の機体です。4型は尾部と胴体が大型化したもの。
マクドネルF-101Bブードゥー(1日ぶり2機目・327機目)
クルセイダー(十字軍)と並んでその名前はどうだろう...、と思わせる戦闘機。
B型は複座の迎撃機です。防空用の迎撃機はF-102およびF-106がすでにいるんですが、あれこれ理由をつけて運用しています。空軍が予算獲得のために採用したんじゃねーのという気がしないでもなく。
ちなみにF-101のT字尾翼は最悪で、飛行中迎え角を取るとつられて急激なピッチアップを起こして次いで失速するという欠陥を持っていました。それの対策は「機動せずにまっすぐ飛べ」というものでした。一応戦闘機なんだけど・・・。
そういう事情もあって、F-101はまっすぐ飛んでりゃいい迎撃機と偵察機にしか使えなかった説あり。そこまでして使うことないでしょって感じですが、きっと空軍も予算が欲しかったんでしょう。
ブッシュビーMM IIミジェットマスタング(328機目)
軽飛行機メーカーのパイパーの技師が個人で1948年に発表した飛行機でしたが、反応が悪く、終わってしまいました。
が、ロバート・ブッシュビーが1959年にこの飛行機の製造権を買い取り、開発を続行。1965年に販売を開始しました。現在までに400機以上が生産されたそうな。
マスタングっていうのはP-51を意識しているんですかねぇ。言われればそれっぽく見えるとは思います。
グラマンOV-1Cモホーク(2日ぶり2機目・329機目)
アメリカ陸軍が運用していた観測機です。陸軍というところがミソで、陸軍機としては珍しい固定翼機です。1959年初飛行ですから、この頃はまだ固定翼機の運用がギリ出来ていた時期だったと思います。
現場の地上部隊を管制するような役割を主に求められていました(直接協同と言うそうな)。なので前線での運用に耐えられる設計がされていて、不整地滑走路での離着陸が出来るのは当たり前。エンジンが片方やられても急激に姿勢を崩さない生存性の高さなどが挙げられます。
他に近接航空支援(CAS)を含めたCOIN機としても使っていたようですが、人の仕事を分捕るなと空軍から横槍が入ったのでこの運用はされなくなってしまいました。とか言いつつ空軍はCAS機を持たずに地上支援する気なんてサラサラ無いですから、厄介です。仕事を取るな、と言うより予算を取るな、といったほうが正確でしょう。
バッドRB-1コネストガ(1943年・330機目)
見学時は欠損部品の多いブサイクな輸送機だと思って軽くスルーしてしまいましたが、帰ってから調べてみるやとても面白い機体だと分かりました。間違いなくこれは珍品です。
製造メーカーがバッド(Budd)というところから興味深いです。バッドは鉄道オタクならご存知でしょう、ステンレス車両の製造メーカーとして名を馳せたあのバッド社です。この会社、飛行機も造っていたんですよ。
普段飛行機を造らないような会社が飛行機を造るというのは第二次世界大戦中のアメリカではそこかしこで見られたものです。例えば自動車メーカー フォードのB-24爆撃機、同じく自動車メーカーのGMのF4F戦闘機やTBF雷撃機、変わったところではタイヤメーカーのグッドイヤーのF4U戦闘機等々・・・。
飛行機に限らなければ、戦車や野砲なんかは自動車メーカーはもちろん、鉄道工場なんかでもバカスカ造ってました。
ただし、上記のような異業種が兵器生産をしたというのは、他社製品のライセンス生産である場合がほとんどです。その点で、バッドが飛行機を独自開発したというのは珍しいでしょう(ただし機体設計は外部が関与してると思われ)
なんでバッドが飛行機開発したのかというと、バッドがステンレス鋼の加工に自信ニキだったからです。
・・・・・・そうです、この飛行機は銀ピカですが、素材はアルミ合金とかジュラルミンとかではなく、ステンレス鋼なのです。オールステンレス飛行機というのは前代未聞でしょう。
この輸送機の開発はアメリカが日本に横っ面を引っ叩かれてWWIIに本格的に参戦した直後辺りに始まりました。当初アメリカ軍は、戦争が進むに連れて飛行機の素材であるアルミ合金が不足するだろう、という予想を立てていました。
そこで、輸送機や練習機という後方で使われるような、アルミ合金による軽量化の恩恵を受ける必要が比較的無い機種に関しては、アルミ合金以外の素材で飛行機を作ってみようという話が進んでいきました。日本やドイツが大戦末期に資材不足に悩んだ末に木製戦闘機を造ったように大半は木製で開発するつもりだったそうですが、バッドだけは自慢のステンレス鋼を用いて海軍向けにステンレス輸送機が開発することになりました。
開発は順調に進んだようです。機体は骨格となるフレームの上にステンレスの板をスポット溶接したもので、ステンレス客車での技術が活かされていました。なので胴体がしわしわになっているのに注目してください。モノコック構造と違って外板が強度を負担していないのです。
その後試作機17機が海軍に納品されました。そして海軍はRBの名前で200機、さらに陸軍からもC-93の名前で600機の発注を得ました。こうしてRB/C-93は資源不足を救う輸送機として名を・・・轟かせられませんでした。
まず、予想されていたアルミ合金の不足が起きなかったこと。もうこれだけでRBの存在意義はほとんど失ったようなものです。ステンレス鋼はアルミ合金よりも重く、軽さが命の飛行機の素材としては適してないので、使わないんだったらそれに越したことはありません。
次に、生産コストが意外と高かったこと。コスト高騰の詳しい理由は分からないので推測になりますが、ステンレス鋼は曲げ加工がムズいんで、曲面だらけのRBでは生産に時間がかかったこと。あとはバッド自体が飛行機の製造に不慣れだったこと、ですかね?
結局、試作機17機が造られただけで開発中止となってしまいました。南無。
残念な結果になりましたが、実はRBは機体構造が当時としては実に先進的です。太い胴体、主翼を高翼配置、車輪は前輪式、胴体後部にカーゴランプを配置、コックピットは一段高いところに置いてその分荷室をできるだけ前方まで広く配置・・・と、C-130から始まる軍用輸送機の基本構造をほぼ抑えているのです。
現代の軍用輸送機の基本構造のルーツはC-130ですが、それより何十年も前にRBがやっていたというのは特筆すべきことでしょう。ただ、RBが制式採用されずに消えていったドマイナー機になってしまったからか、RBの後に続く構造の輸送機が現れなかったのは惜しいことです。
・・・というような感じで、流し見しただけなのをとても悔しく思っている飛行機です。再履修したら舐めるように見てやる。
なお現存機はこれだけで、大変貴重です。不採用機がよくもまあ残っていたものだこと。
欠損部品が多く、ほとんど胴体だけの姿ですが、ステンレス製という特殊性が災いしているのか、復元は進んでいないようです。
パイパーU-11Aアズテック(1952年・331機目)
アメリカ海軍の連絡機です。旧名はUO-1。パイパーの民間用軽飛行機PA-23を流用したものです。
パイパーでは初めての双発機で、4人乗りの前期型と6人乗りの後期型があります。名前も違っていて、前期型はアパッチ、後期型がアズテックです。
海軍では基地間の連絡の他に、デスクワークの多いパイロットが技能維持のために飛ばしていたようです。技能維持というよりも、確かパイロットには年間飛行時間が決まっていて最低でもその時間以上飛んでいないといけなかったはずなので、それの消化でしょう。
セスナU-3Aブルーカヌー(1953年・332機目)
これもセスナの民間機モデル310を空軍が軍用に転用したもの。やはり連絡機として使ってました。
ノースロップYC-125Aレイダー(1949年・333機目)
ノースロップ、輸送機もやってたのか。3発エンジンって戦前かいな、という感じですが1949年初飛行です。これは短距離離着陸機が目的だったようです。襲撃者(Raider)という名前から、前線で使うように造られてそうです。
もともと民間用でして、これで一山当てようと思ってましたが、戦後間もない頃だと大量のC-47輸送機が格安で民間に放出されてた時期でして、誰も買う人なんていないのでした。
一応、空軍が興味を持ってくれましたがそれでも試作程度に20機造っただけで終わってしまいました。ノースロップくん、ここでも当たりを引けず・・・。
それでも飛行学校の教材になったり中南米の航空会社に売却されたりして、現在は2機が現存しています。
これもRB同様の構造でいい線いってたんですが、やはり誰からも覚えてもらえなかったので後に続くものがいなかったという。
あと脚の構造がすごいな、と。着地したとき折れそうだぞ。
マーティン モデル404 スカイライナー(334機目)
空港アクセス特急みたいな名前ですが・・・当然飛行機のほうが先。
マーティンの旅客機です。モデル202の改良型で、予圧客室を採用して快適性が上がりました。100機程度造られて、イースタン航空とトランスワールド航空に大半が引き渡されたそうな。
この塗装は個人が持ってた払下げの機体の塗装っぽいです。
エルコ415Cエルクーペ(1937年・335機目)
現代の軽飛行機のような姿ですが戦前に設計された古い飛行機です。前輪式、低翼、全金モノコック構造と、当時としては先進的な構造を持っていました。それでも双尾翼なところは戦前らしいかな。
あとは、機体にラダーはあるもののコックピットにはラダーペダルが付いていない変わった設計です。ラダー操作はエルロン操作と連動して行うんだそうな。
しかし、直後に第二次世界大戦が始まり販売しているような状況ではありませんでした。
販売再開は大戦終結後の1946年から。その年だけで4,300機以上を生産しました。軍から放出された軽飛行機が強力なライバルとなる中でこの数は、機体の性能は結構良かったということでしょうか?
エルコは1950年に生産を中止しますが、製造権を他社に売却して1970年代まで生産は続けられてたようです。
セスナ モデル150L(1957年・336機目)
説明不要のセスナの軽飛行機。なので説明しません(手抜き)
ただし、いわゆる「セスナ」と呼ばれているモデル172は4人乗りなのに対して、モデル150は2人乗りで一回り胴体が小さいのです。
ベイドBD-4(1968年・337機目)
普通の軽飛行機という感じですが、世界初のホームビルド機という肩書を持っています。
初めての飛行機キットということで造りやすさははじめから考えられていて、胴体は直線と平面で構成されています。唯一曲面の部材であるエンジンカウリングとタイヤのスリッパは炭素繊維製の部品で成形されています。主要部品はボルトで締結するだけという組み立てやすさも特徴。組み立ても一部選択式になっていて、車輪を前輪式/尾輪式、胴体を2人乗り/4人乗りで選択できました。初のキットながら完成度は高かったと思います。
数千機分のキットが販売され、そのうち数百機が完成したと言われています。キットはもう絶版ですが、中古市場ではまだ人気があるとかで。
ヴィッカース モデル744バイカウント(1948年・338機目)
WWII後増大する航空需要を見越して「ワイらが旅客機製造の派遣を取るんや!」としてブラバゾン委員会で開発された旅客機です。機体サイズや航続距離に応じて5種類の旅客機が開発されまして、バイカウントはDC-3相当の大きさの短距離機です。ブラバゾン委員会で開発された旅客機はほとんど鳴かず飛ばずだったんですが、その中でバイカウントは最も成功した機体と言われていて、400機以上が生産されました。全日空も使ってましたね。
機体サイズは現在で言うところの小型リージョナルジェット級の約50席で、ターボプロップエンジン4発を搭載しています。なお世界初のターボプロップエンジン搭載旅客機です。胴体の形状が美しく、私は結構好きな機体です。
右主翼の手前に置かれているのがバイカウントのエンジンのロールスロイス ダートエンジンです。
これはおそらく1955年製で、北米初のバイカウントです。トランスカナダ航空に納品されて1963年まで運用してました。退役後は個人や民間会社を渡り歩いていたそうな。
ライアン・テムコ ツインナビオン(1953年・339機目)
もともとノースアメリカンが開発していたナビオンという単発の軽飛行機ですが、F-86セイバーの生産でいっぱいいっぱいになってしまい、ライアンに製造権を売却することに。
ライアンでナビオンを生産していましたが、その後これを双発機に改造してしまおうと考えました。胴体はそのままに、主翼にエンジンを搭載し、エンジンの無くなった機首は荷物室にしました。100機くらいが単発のナビオンから改造されたと言われてます。新造機はいないらしい。
スノーS-2A(340機目)
初飛行時期はよくわかりませんでしたが、1950~1960年代の飛行機なのだということ。1930年代前半の飛行機にしか見えないけれども。
上空から農薬を散布する農業機として造られたのだそうな。
ビーチU-8Dセミノール(1949年・341機目)
モデル50ツインボナンザの軍用版です。陸軍の連絡機として使っていた模様。単発機のボナンザの双発版みたいな名前ですが、設計は完全に新規のようです。
シュドSE-210カラベル(1955年・342機目)
フランス製のリアエンジンと十字尾翼を採用したはじめてのジェット旅客機です。特にリアエンジンは現在のジェット旅客機にまで影響を与えている革新的方式です。他にもつるんとした機首や角の丸い三角形の窓も特徴的。
画期的な飛行機のはずですが、あんま知名度高くないような。
これはテキサスのエアロサービスという会社の塗装だそうな。胴体の下についている観測ポッドみたいなのは何なのかしら。
ビーチクラフト モデル2000Aスターシップ(1986年・343機目)
オイルショックの時に流行った低燃費ターボプロップビジネス機。後退角を可変できる先尾翼、推進式プロペラ、炭素繊維製胴体、グラスコックピットなど、低燃費を狙った先進的技術が採用されています。ただし価格が上昇してしまい、従来機や競合機に対して優位に立てず、鳴かず飛ばずで販売終了してしまいました。
この時期の低燃費ビジネス機は特徴的で面白いので好きです。
シコルスキーJRS-1ベビークリッパー(1935年・344機目)
古そうな飛行艇だと思ったら案の定戦前の設計でしたね。こんな外に置いておいておくものじゃないでしょ。
JRS-1はアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で使われていたものの型番で、他に民間用にもS-43として製造しました。民間ではパンナムなんかが使っていました。最大25人乗りです。
"ベビー"クリッパーというくらいですから、大人なクリッパーもあるってことで、これはS-42クリッパーとして存在しています。最大37人乗り、4発エンジンのでかい飛行艇で、これもパンナムが運用していました。アメリカ西海岸~中国とかカリフォルニア~ハワイとか、長距離路線に充てられていた模様。
敷地の奥にいるB-52(1日ぶり2機目・345機目)。あそこは立入禁止で、どうも修復区画っぽいです。B-52も整備中なんでしょう。
ちゃんと整備用の格納庫を持っているのがすごいよなぁと思うわけで。どんだけデカイんだこの博物館。
少し違う方を向いてみると、展示前の飛行機がずらずらと・・・。ハリアー、C-27、B-52、他によく分からない機体もたくさん。
まだまだ増やす気満々だからすげーわここ。これ以上増やしてどないすんねん。そのうち全部見るのに3日掛かるぞ。
今回はここまで。
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