2018年2月10日(土)12時19分シンガポール キングアルバートパーク駅前停留所次の場所へは路線バスで移動します。自分の乗る路線が来るまでバス撮影します。これはSBSのボルボ・B9TLオリンピアン#74 Buona Vista Rd.。元イギリス植民地だからか、二階建てバスも走っているのです。
スカニア・K230UB (Euro V) #154 Boon Lay。
SMRTの#184 Bukit Panjang に乗ります。シンガポールの路線バスは$1.4~$2.5の間の距離変動制運賃です。前乗りで料金先払なので、現金払いだとイチイチ運転手に料金を聞く必要が有りにけり。小銭も用意しなければならないので、何かと面倒だと思います。私みたいにツーリストパスを買うか、あるいはSuicaのシステムに近いイージーリンク・カードを使うのが楽だと思います。車内はクロスシート主体です。
Aft. Old Jurong Rd.停留所で下車。車両はメルセデス・ベンツ・O405G連節バスでした。
バス停はこう。停留所名と乗り入れ路線系統番号が書かれていて、分かりやすいね。
バス停を降りて徒歩1分、来たのは「旧フォード工場 (Former Ford Factory) 」です。いや本当にこういう名前。名前からは連想しづらいですが、ここは戦争資料館です。自動車博物館とかではないのよ。
場所はここ。
この場所は、太平洋戦争の緒戦で大日本帝国陸軍が当時イギリス領のマレー半島とシンガポールに侵攻した際、最終的にイギリス軍が降伏しました。そしてイギリスが降伏文書に調印した場所がここのフォード自動車の組立工場だったのです。
建物はやけにきれいですが、建て直しじゃなくて当時から残っているものです。ただ内部は原型を留めていないと思います。このフォードの工場は1941年に建てられて、マレーシア、ミャンマー、タイ等の東南アジア向けの自動車の組立工場として稼働していました。日本軍がマレーシアに攻め込んだ1941年12月8日に工場は操業停止し、イギリス軍の軍用車や戦闘機の組立工場に徴用されました。日本軍がシンガポールまで侵攻してきた1942年2月13日には日本軍に乗っ取られて臨時の司令部になりました。んで、2月15日にイギリス軍と日本軍の間で降伏文書が交わされました。それから日本が戦争に降伏するまでは日本向けの軍用車の生産を行っていました。終戦後はフォードの所有に戻り、1947年~1980年まで組立工場として操業していました。閉鎖後は放置されていましたが、2006年に国定史跡に指定された上で戦争資料館として活用されることになったのでした。
入館料を払って館内へ。当時の史料を交えたパネル展示が主です。土地柄、イギリス軍が日本軍に降伏してシンガポールが日本に占領された、というかシンガポール側の視点で展示されております。まあそうなるな。
これは当時の日本の雑誌の記事だそうな。極東イギリスの要塞シンガポールとは何たるやが書かれています。
シンガポール市街地の地図だそうな。
川西富夫くんの出征旗だそうな。
東南アジアの地図だそうな。
こういう資料を展示しながら、戦前のシンガポール、日本軍の侵攻、イギリス軍の防衛なんかを説明しています。
敵軍戦闘指揮要領要図だそうな。
これはイギリス海軍の無線機 (Type CKP-46159-A Radio Receiver) だそうな。
ここの目玉展示が出てきました。1942年2月15日、イギリス軍の指揮官アーサー・E・パーシバル中将と日本軍の山下奉文中将との間で降伏文書が交わされた時の机と事務室が残っています。歴史を作った机と事務室です。写真に描かれていたものと同じですね。
色々と降伏条件を引き出そうとするパーシバル中将に対して山下中将が「イエスかノーか」と迫ってきたこの席での話は有名ですね。
壁の黒板は映像が流れるようになっています。山下中将ですな。
ここからは日本の占領政策に関する展示です。占領後のシンガポールは昭南島に名前を改められました。
占領後に日本は組合を作って食料や生活物資の流通を統制し、配給制にしました。が、シンガポールは元来物資を輸入に依存していました。後年、日本の輸送船が連合国の通商破壊作戦で寸断されると物資が枯渇するようになるっていうお馴染みのアレに陥りました。市民は相当苦しめられたようです。1943年、日本は物資の自給自足を始めますが、そもそも原材料がないのでどうしようもなく、予備部品も払底して日用品の使用にも支障をきたすなど、ヤバみが増してきました。ここで例としてあげられている1日あたりの米の量は、占領開始時が397gだったのに対して1944年2月には男性158g、女性119gと激減しました。あーあ。
日本が戦争に負けるとまたイギリスがヤアヤアと舞い戻ってきました。戦後はマラヤに自治権を与えましたが、シンガポールとは分離させてイギリス直轄領としました。依然として極東イギリス軍の拠点として戦略的価値が高かったからです。オーストラリアは遠すぎるし香港は中国の内戦でキナ臭いしで、ちょうどよかったようです。戦後10年間は、ソ連の共産化が東南アジア各地を覆ってきていて、シンガポールはそれに対抗する必要もあったのも関係します。1950年代、こりゃマラヤは西側になるなとイギリスが確信したところで、イギリスはシンガポールをマラヤに帰属させる計画を出してきました。1955年にシンガポールは完全自治に移行して、この時の選挙で勝利した人民行動党(PAP)が政権に就いて、以来ずっと政権を維持しています。1963年、シンガポールはマラヤと合併してマレーシア連邦の一分になりましたが、こいつらは仲が良くなかったのでマレーシアがシンガポールを追放する形で現在のシンガポール共和国になりましたとさ。
といったところで展示はおしまいです。第二次世界大戦時のシンガポールというよりはシンガポール共和国建国までの歴史を説明してくれる場所でした。展示は割と中立寄りと思いますが、あくまでシンガポール側の視点に立っているのも外国の戦争資料館ならではです。シンガポール史を知りたい時にはちょうどよいと思います。冷房が効いていて快適ですしね。
この後は、路線バスでBt Panjang Stn.停留所まで移動。ここで、ブキ・パンジャンLRTという高架鉄道があるので、撮影しようと思ったんですが、バスを降りた眼の前で通過していってしまいました。この路線は休日の日中は40分か60分間隔の運行で、次が来るまでに待たないといけません。この路線は大空港のターミナル間連絡鉄道に使われるような無人運転の小型車が走っています。なんだかもう嫌になっちゃったし正直次を待つほど魅力がないので、ここは切り捨てて次に行くことにしました。
同日13時55分シンガポール ジャンクション10近くにある商業施設「ジャンクション10」内にある食堂で昼飯にしました。肉団子入ラーメンみたいなやつで、スープは東南アジア風です。まあまあでした。
昼飯を食べたら、Junction 10停留所から#961 Woodlands に乗って、Heavy Veh Pk.停留所で#927 Singapore Zooに乗り換えます。これで終点まで乗って、シンガポール動物園に乗り込みます。
というところで今日はここまで。
その7へ→
スカニア・K230UB (Euro V) #154 Boon Lay。
SMRTの#184 Bukit Panjang に乗ります。シンガポールの路線バスは$1.4~$2.5の間の距離変動制運賃です。前乗りで料金先払なので、現金払いだとイチイチ運転手に料金を聞く必要が有りにけり。小銭も用意しなければならないので、何かと面倒だと思います。私みたいにツーリストパスを買うか、あるいはSuicaのシステムに近いイージーリンク・カードを使うのが楽だと思います。車内はクロスシート主体です。
Aft. Old Jurong Rd.停留所で下車。車両はメルセデス・ベンツ・O405G連節バスでした。
バス停はこう。停留所名と乗り入れ路線系統番号が書かれていて、分かりやすいね。
バス停を降りて徒歩1分、来たのは「旧フォード工場 (Former Ford Factory) 」です。いや本当にこういう名前。名前からは連想しづらいですが、ここは戦争資料館です。自動車博物館とかではないのよ。
場所はここ。
この場所は、太平洋戦争の緒戦で大日本帝国陸軍が当時イギリス領のマレー半島とシンガポールに侵攻した際、最終的にイギリス軍が降伏しました。そしてイギリスが降伏文書に調印した場所がここのフォード自動車の組立工場だったのです。
建物はやけにきれいですが、建て直しじゃなくて当時から残っているものです。ただ内部は原型を留めていないと思います。このフォードの工場は1941年に建てられて、マレーシア、ミャンマー、タイ等の東南アジア向けの自動車の組立工場として稼働していました。日本軍がマレーシアに攻め込んだ1941年12月8日に工場は操業停止し、イギリス軍の軍用車や戦闘機の組立工場に徴用されました。日本軍がシンガポールまで侵攻してきた1942年2月13日には日本軍に乗っ取られて臨時の司令部になりました。んで、2月15日にイギリス軍と日本軍の間で降伏文書が交わされました。それから日本が戦争に降伏するまでは日本向けの軍用車の生産を行っていました。終戦後はフォードの所有に戻り、1947年~1980年まで組立工場として操業していました。閉鎖後は放置されていましたが、2006年に国定史跡に指定された上で戦争資料館として活用されることになったのでした。
入館料を払って館内へ。当時の史料を交えたパネル展示が主です。土地柄、イギリス軍が日本軍に降伏してシンガポールが日本に占領された、というかシンガポール側の視点で展示されております。まあそうなるな。
これは当時の日本の雑誌の記事だそうな。極東イギリスの要塞シンガポールとは何たるやが書かれています。
シンガポール市街地の地図だそうな。
川西富夫くんの出征旗だそうな。
東南アジアの地図だそうな。
こういう資料を展示しながら、戦前のシンガポール、日本軍の侵攻、イギリス軍の防衛なんかを説明しています。
敵軍戦闘指揮要領要図だそうな。
これはイギリス海軍の無線機 (Type CKP-46159-A Radio Receiver) だそうな。
ここの目玉展示が出てきました。1942年2月15日、イギリス軍の指揮官アーサー・E・パーシバル中将と日本軍の山下奉文中将との間で降伏文書が交わされた時の机と事務室が残っています。歴史を作った机と事務室です。写真に描かれていたものと同じですね。
色々と降伏条件を引き出そうとするパーシバル中将に対して山下中将が「イエスかノーか」と迫ってきたこの席での話は有名ですね。
壁の黒板は映像が流れるようになっています。山下中将ですな。
ここからは日本の占領政策に関する展示です。占領後のシンガポールは昭南島に名前を改められました。
占領後に日本は組合を作って食料や生活物資の流通を統制し、配給制にしました。が、シンガポールは元来物資を輸入に依存していました。後年、日本の輸送船が連合国の通商破壊作戦で寸断されると物資が枯渇するようになるっていうお馴染みのアレに陥りました。市民は相当苦しめられたようです。1943年、日本は物資の自給自足を始めますが、そもそも原材料がないのでどうしようもなく、予備部品も払底して日用品の使用にも支障をきたすなど、ヤバみが増してきました。ここで例としてあげられている1日あたりの米の量は、占領開始時が397gだったのに対して1944年2月には男性158g、女性119gと激減しました。あーあ。
日本が戦争に負けるとまたイギリスがヤアヤアと舞い戻ってきました。戦後はマラヤに自治権を与えましたが、シンガポールとは分離させてイギリス直轄領としました。依然として極東イギリス軍の拠点として戦略的価値が高かったからです。オーストラリアは遠すぎるし香港は中国の内戦でキナ臭いしで、ちょうどよかったようです。戦後10年間は、ソ連の共産化が東南アジア各地を覆ってきていて、シンガポールはそれに対抗する必要もあったのも関係します。1950年代、こりゃマラヤは西側になるなとイギリスが確信したところで、イギリスはシンガポールをマラヤに帰属させる計画を出してきました。1955年にシンガポールは完全自治に移行して、この時の選挙で勝利した人民行動党(PAP)が政権に就いて、以来ずっと政権を維持しています。1963年、シンガポールはマラヤと合併してマレーシア連邦の一分になりましたが、こいつらは仲が良くなかったのでマレーシアがシンガポールを追放する形で現在のシンガポール共和国になりましたとさ。
といったところで展示はおしまいです。第二次世界大戦時のシンガポールというよりはシンガポール共和国建国までの歴史を説明してくれる場所でした。展示は割と中立寄りと思いますが、あくまでシンガポール側の視点に立っているのも外国の戦争資料館ならではです。シンガポール史を知りたい時にはちょうどよいと思います。冷房が効いていて快適ですしね。
この後は、路線バスでBt Panjang Stn.停留所まで移動。ここで、ブキ・パンジャンLRTという高架鉄道があるので、撮影しようと思ったんですが、バスを降りた眼の前で通過していってしまいました。この路線は休日の日中は40分か60分間隔の運行で、次が来るまでに待たないといけません。この路線は大空港のターミナル間連絡鉄道に使われるような無人運転の小型車が走っています。なんだかもう嫌になっちゃったし正直次を待つほど魅力がないので、ここは切り捨てて次に行くことにしました。
同日13時55分シンガポール ジャンクション10近くにある商業施設「ジャンクション10」内にある食堂で昼飯にしました。肉団子入ラーメンみたいなやつで、スープは東南アジア風です。まあまあでした。
昼飯を食べたら、Junction 10停留所から#961 Woodlands に乗って、Heavy Veh Pk.停留所で#927 Singapore Zooに乗り換えます。これで終点まで乗って、シンガポール動物園に乗り込みます。
というところで今日はここまで。
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